加藤 和彦
土曜日, 1月 29th, 2011(かとう かずひこ、1947年3月21日 – 2009年10月16日[1])は日本の音楽プロデューサー、作曲家、ギタリスト、歌手。「トノバン」という愛称で呼ばれることもあるが、これはライブでドノヴァンの楽曲をカバーするなどしたことに由来する。
うつ病を罹患して、2009年10月17日長野県軽井沢町のホテルで首吊り自殺により亡くなった。
1960年代後半にフォークグループザ・フォーク・クルセダーズ(フォークル)でデビュー。その後、ソロ活動に移行し、並行して1970年代初頭から中盤にかけてロックバンドサディスティック・ミカ・バンドを結成。
1977年、作詞家の安井かずみと再婚。彼女が病に倒れる1990年代初頭まで「作詞・安井かずみ/作曲・加藤和彦」で、三部作[3]『パパ・ヘミングウェイ』『うたかたのオペラ』『ベル・エキセントリック』(1979年-1981年)などのソロ作品の他、数々の作品を他ミュージシャンに提供した。
また、1980年代から映画音楽、1990年代後半からはスーパー歌舞伎の音楽なども幅広く手掛けていた。
略歴 [編集]
京都市伏見区生まれ。生後すぐに神奈川県鎌倉市に移り、鎌倉と逗子市で小学校4年まで育つ。その後1年間京都で、その後は高校卒業まで東京都で育つ[4]。
ボブ・ディランの「Don’t Think Twice, It’s All Right」 を聞いた影響でギターを始める。
東京都立竹台高等学校卒業後、仏師だった祖父の後を継ぐ気持ち半分で[5]京都市伏見区の実家に近い仏教系大学龍谷大学に入学。アマチュアフォークグループ「ザ・フォーク・クルセダーズ」の解散記念に制作した自費製作アルバム(インディーズではない。)『ハレンチ(破廉恥)・ザ・フォーク・クルセダーズ』中のオリジナル曲「帰って来たヨッパライ」に対するリクエストがラジオ局に殺到し、プロデビューの話が持ち込まれる。加藤は難色を示したが、北山修による毎朝の説得[6]を受け入れ、1年限りの約束でプロの世界に入った。
シングル2作目に予定していた「イムジン河」が発売中止にされた。
「水虫の唄」(作詞・作曲:山田進一、補作詞:足柄金太、補作曲:河田藤作) ザ・フォーク・クルセダーズが1968年7月1日にアルバム『紀元弐阡年』の先行シングルとして発売した。彼らは曲に合わせていろいろな名前を使い分け、このシングルは「ザ・ズートルビー」という名前で発表した。
フォーク・クルセダーズ解散後、愛称「トノバン」に現されるように、ドノヴァンの影響を色濃く漂わせた楽曲も垣間見える(初期のソロ活動では、イベントで当時より20年近く日本で未発売だったドノヴァンのアルバム『H.M.S. Donovan』中の曲をカヴァーしたりもしていた)。この時期、頻繁にロンドンと東京とを行き来した。自ら本格的な料理を作る事を好んだ。
1971年には「あの素晴しい愛をもう一度」を、作詞・ボーカル(デュエット)を担当した北山修との連名で発売した。
その後、当時の妻・福井ミカをボーカルにしたサディスティック・ミカ・バンドを結成。ロックバンドによくあるグループ編成の形態ではあるが、そのサウンドもロンドンポップ、グラム・ロック、レゲエから、今でいう「ワールド・ミュージック」、琉球音階の導入など、実験精神に溢れたもので加藤の先取の気質がよく顕われている。クリス・トーマスプロデュースによるアルバム『黒船』を発表後、ロキシー・ミュージックのオープニング・アクト(前座)としてイギリスツアーを敢行するが、福井ミカとの離婚をきっかけに解散(ミカ・バンドは、1989年に、新ヴォーカリストに桐島かれんを迎え再結成し、のちに解散コンサートを行った。その後に、三代目ボーカルとして木村カエラを迎え、サディスティック・ミカエラ・バンドとして再々結成)。
1977年に安井かずみと再婚。1994年に死別するまで、安井との作詞作曲コンビで数多くの作品を発表した。1980年代は「あの頃、マリー・ローランサン」などを発表。
1990年代からは歌舞伎音楽を手がけ、「歌舞伎史上初めて洋楽オーケストラを歌舞伎に取り入れた」と市川猿之助 (3代目)に言わしめた[7]。この縁から、後の「ザ・フォーク・クルセダーズ新結成解散コンサート」は市川猿之助と共に歌舞伎の口上で幕を開けることになる。
1996年、フジテレビ系『ポンキッキーズ』挿入歌として西田ひかるとのデュエット曲「メロディー」を発表。
1995年中丸三千絵と再々婚するが、2000年に離婚。
2005年発売のプレイステーション2用ゲームソフト『天外魔境III NAMIDA』の音楽を担当。指揮に佐渡裕、演奏に新日本フィルハーモニー交響楽団、歌手にサラ・ブライトマンを起用した。
2007年に坂崎幸之助とのユニット、和幸(かずこう)を結成。2007年・2009年にアルバムリリース、ライブを行った。
「同じことは二度とやらない」をモットーとしており、サディスティックミカバンドやフォークルを新結成することがあっても過去とは全く異なるアプローチで臨んでいる(フォークルは「再結成」ではなく、「新結成」であると加藤は語っている)。また、サディスティック・ユーミン・バンドなる企画もあった。
2009年10月17日、長野県軽井沢町のホテルで遺体となって発見された。死因は首吊りによる自殺と見られている[1][8]。享年63(満62歳没)。最近になって鬱病を患い、死の直前にはそれが悪化していたという。
公の場では2009年10月2日、東京国際フォーラムでの松任谷由実のライブにゲストとして登場したのが最後であった。
『和幸』としてのステージは2009年9月20日『南こうせつサマーピクニックフォーエバーinつま恋』でのゲスト出演がラストステージとなった。

